October, 2008
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「ちょっと待ってぇ……!」

 明るい声に振り返ると、笑顔のアカバネが息を切らせて駆け寄ってきた。
 場所はマンション敷地内の駐車場。植え込みの潅木の影が深いが、ブルーの夜間照明が車のまばらな駐車場を、水族館の館内のような色に染めている。例によってアツマタに米俵よろしく担がれて運ばれた僕は、タカツキの車にようやくたどり着いたところだった。
「いい画は撮れたか、アカバネ?」
 アカバネはプラスチック製のディスクケースを、恭しい手つきでタカツキに手渡した。
「はい、画も音声もバッチリ撮れてます。複製のほうはアツマタに渡しておきますんで」
 アカバネが頷きかけると、僕の横でアツマタがいかつい顎を引いた。
「よくやった、アカバネ。今日はもう帰って休め。アツマタ、お前も今日は帰っていい。二人とも帰り道は『後ろ』に気をつけろ――いいな?」
「はい、ご主人様……!」
 アツマタとアカバネの声が見事に重なる。落ち着いたアツマタの声に比べ、アカバネのほうはやけに弾んだ声で、心なしか頬まで赤く染めている。
 タカツキをご主人様と呼ぶということは――アカバネもアツマタや僕と同じ……?
「タツミ、行くぞ」
 タカツキは呆然としている僕を促して、自分はさっさと車に乗り込んでしまった。僕ものろのろとドアを開けて、恐ろしくゆっくりと乗り込んだ――身体がとても重い。
 ぐったりとシートにもたれた時、コンコンと窓を叩く音がした。アカバネが僕を窓越しに見下ろしている。窓を開けるとアカバネはタカツキに軽く頭を下げ、続いて僕に名刺を差し出した。気のせいか、顔つきや印象まで変わっている。
「すみません、さっき自己紹介忘れちゃって。何時でもいいんで、携帯に連絡ください」
「携帯……」
 名刺には、『ホストクラブ・夢胡蝶《ユメコチョウ》、代表取締役・赤羽根薫《カオル》』とあり、裏には走り書きらしい携帯番号が記されていた。
「表のほうは業務用なんで、裏のほうにかけてください。そっちが俺のプライベートナンバー」
 アカバネはとっておきの秘密を打ち明けるみたいな、きらきらした眼で僕を見ている。
「それじゃ……リョウ様、タツミさん、お帰りはどうかお気をつけて――」
 アカバネは慇懃に45度のおじきをした。それを受けてタカツキが窓を閉めると、アカバネは愛想よく手を振りながらアツマタと並んで去っていった。
「アカバネに気に入られたようだな、タツミ」
「あの人も……タカツキの下僕だったのか」
 問いには答えず、タカツキはいつのまに取り出したのか、DVDカムの画面を眺めている。
 聞こえてきたのはクロサキと僕の声だった。しばらくして僕のイッちゃった笑い声――さっきアカバネに手渡されたディスクケースには、このDVD-ROMが入っていたらしい。
「まさか……あれ、全部録画していたのか?」
「そうだよ、一部始終だ……よく撮れているなぁ。アカバネはこれが副業だから、いい腕をしているんだ」
 確かにアカバネは撮影していたけど、さらにDVDに焼き直していたのか――素早い。
「それ……どうするんだよ。クロサキさんを脅すのか?」
「――脅迫は犯罪だ。あんな小物のために俺が手を汚すと思うか? くだらない」
 ごもっとも。それにしても、黒崎グループのご令息相手に『小物』とは――。
「携帯の画像見せた時のクロサキの反応を覚えてるだろう? あの男はあれでも頭が切れるから、何も言わなくても俺に首根っこを押さえられたことは充分に理解している。まあ、転んでもタダでは起きないような男だから、コイツは一応保険として残しておくとしよう」
 タカツキは淡々とそう言って、DVDカムをグローブボックスに放り込んだ。続いて苛立たしげにギアを入れると、およそらしくない雑な運転でマンションを後にした。

 真夜中――帰り着いたのはタカツキのマンションだった。
 タカツキは部屋に入るなり、キッチンの冷蔵庫からVOSS《ボス》のボトルを持ってくると、リビングに立ち尽くす僕に一本手渡して、自分はグラスに注いで一気に飲み干した。
「……怒っているのか、タカツキ?」
 僕がおずおずと訊くと、タカツキは「ふん」と鼻を鳴らす――機嫌が悪い証拠だ。
「俺の下僕を手荒に扱ったことが許せん。クロサキがお前にビンタしていた時には、俺がクロサキを殴りたかったんだが……アカバネが高感度カメラで撮ってたんでな。この先クロサキの動きを封じるにはネタが必要だったし、あの時は撮影を優先させるしかなかった」
 痛かったか? と、タカツキは物憂げな心配顔で僕を見る。
「へ……平気だよ。モリカワ君の尻尾ビンタよりはマシだ」
 本当はモリカワ君の尻尾ビンタのほうがクロサキのそれに比べて痛くはなかったのだが、僕は珍しくタカツキに心配されたことで動揺していた。話をそらそうと話題を探す――そうだ!
「クロサキに誘われたって、どういうことだよ?」
「そのままだよ。食事に行こう、飲みに行こう、部屋に行こう。食事以外は断ったが、ね」
 そうじゃなくて、と苛立つ僕に、タカツキはソファーに座ってすぐ横を叩いた。ここに座れという意味――僕は渋々腰を降ろした。ひと息つき、タカツキは話し始めた。
「――クロサキはハルミの元婚約者なんだ」
「え?」
「俺が今回の……クロサキのたくらみに気づいたのは、ハルミに相談されたからなんだ。クロサキという男は、男にも女にも目がなくてね。いわゆる……」
 聞くなり僕はタカツキの顔を見つめてしまった――今なんて言ったんですか、ご主人様?
「バイセクシャル。男も女も大好きなんだ、あの男は。だから、俺のことも誘ったんだよ」
 僕は納得していいものかどうか迷うが、つまらなさそうにタカツキは続ける。
「ハルミは自作の発信機を相手につける困った癖があるが、それは相手のことを心配しているからだ。だが、クロサキは違う。相手のことを徹底的に調べ上げて監視するためだ」
 クロサキがバイセクシャルだと知ったハルミ嬢は、タカツキに相談を持ちかけた。
 ――事情は察しているつもりよ。
 折りしもタカツキの会社とクロサキ・プロダクツとの間で経営統合、合併に向けた話し合いが進められていた。阻止したいクロサキは、タカツキのことを徹底的に調べ上げた。戦いに勝つためにはまず敵を知れ――戦略の基本だ。
 ところが、タカツキには脅しに使えそうなネタが出てこない。その一方でクロサキは、意外な人物がタカツキと接点を持っていることを知る……それが僕だった。
 それまで何度も打ち合わせで顔を合わせていた営業の一人である僕が、タカツキと少なからず関わりがあると知ったことで俄然クロサキは興味を抱いた。そしてプロを雇って僕のことを調べさせたのだ。
「……じゃあ、ハルミ嬢が仕掛けたのは、ペンシル発信機だけなのか?」
「お前の部屋の盗聴器、携帯のトレース、シール・トレーサーはクロサキが雇ったプロが仕掛けたものだ。ハルミはプロを雇うことでクロサキに感づかれることを恐れていたから、自作の発信機をお前のペンシルに仕込んだんだ。それであの時、お前が喫茶店の近くにいるとわかった」
 ――悩みがあるなら、ここに来い。
 つまり、あの時点でタカツキは僕が悩んで歩き回り、喫茶店の近くまで来ていることを知っていた――ハルミ嬢と連携していたからだ。それでも僕の中には疑問が残る。
「どうして、ハルミ嬢はそんなことを?」
「元よりクロサキは、ハルミとの婚約に乗り気じゃなかった。ハルミがクロサキの性癖に気づいたのがいつであれ、いずれ婚約は解消されていたはずだが……ハルミはクロサキ・プロダクツの経営統合の話を聞き、しかもそれを進めているのが俺の会社だと知って、まず最初にお前の心配をしたんだ」
「僕の……?」
 僕はぽかんと口を開けてしまう。ハルミ嬢に心配されていたなんて意外だった。
「ハルミが外堀を埋めて兵糧断ちをしていたのは、ひとえにクロサキをお前に近寄らせないためだ。多少はクロサキに嫉妬してほしい気持ちもあったようだが、俺とお前の関係については……ハルミはクロサキと似たような誤解をしていた。つまり、お前は俺の――」
「言わなくていい。なんとなくわかる。じゃあ、僕のことが好きとか、そういうことじゃないんだな。熱っぽい眼で見られたり、怖い眼つきで睨まれたりしたから、てっきり……」
「ハルミは近視だからな。遠くの物を見ようした場合、眉間に皺を寄せないとよく見えないらしいし、逆に近すぎても眼が疲れて涙が出やすくなるんだ。眼つきはそのせいだよ」
 ほっとする反面、寂しいような複雑な気持ちだ。そんな僕を見てタカツキが苦笑する。
「つまり、自社の吸収合併を阻止したいクロサキが、俺のことを調べ上げてお前が浮上し、同じくそれに気づいたハルミが独自にお前の動向を監視していた。お前が俺と深い関わりがあると思っていたのが理由だが、ハルミが本当に心配していたのは……お前の貞操だったんだよ」
「て、貞操……?!」
「眼鏡をかけたお前みたいな顔のリーマンは、BLゲームじゃ鬼畜な上司に食われると相場が決まってる……そう言っておいたじゃないか。実際『食われ』かけただろうに」
 ――危険なことになりますよ。
 今さらながらに僕の背筋に悪寒が走った。クロサキの『真夜中の奴隷』という言葉と、あのくすぐり攻撃の真の意味を理解したからだった――ぞわぞわぁっ!
「――タツミ、眼鏡はどうした?」
「ビンタの時にどこかに飛んでいったよ。他のことでいっぱいっぱいで……忘れてた」
 僕は眼鏡を押し上げようとして、意味がない動作と気づいて手を引っ込めた。
「今回の件については……大体わかったよ。これですべて解決なのか?」
 そうだな、とタカツキはうなずく。
「後は俺の会社がクロサキ・プロダクツを吸収するだけだ。経営統合はするが融和措置をとるし、元々クロサキ・プロダクツは芸能プロダクションと連携してメディア関連全般の人材派遣を引き受けているんだが、その一方でソフトウエア開発の方面ではかなり評価の高い優秀な技術者集団を抱えている。俺の会社のソフト開発部でいい仕事をしてもらうよ」
「そうか……タカツキの会社はPCゲームの製作もやってたよな?」
「今の売れ筋商品は女性向けのBLゲームなんだ。一時、クロサキと張り合ってたのさ」
 そのゲームがどういうものか今はなんとなくわかる――リアルな体験をしたもんな。
「大丈夫か、タツミ。顔が赤いぞ?」
「うあっ!……ちょっ……ごめん……触らな、いで……く、れ……」
 タカツキの手が僕の頬に触れた瞬間、強烈な電撃が脳天に突き上げた――なんだ、これ?
「そういえば、クロサキに何か飲まされていたな。あれが今頃効いてきたんだろう」
 タカツキは余裕の笑みで「ふふん」と鼻を鳴らした。
「……な、なんか……身体が、変……くうっ!」
 僕は情けなくソファーに身体を預けた。タカツキは涼しい顔で僕の顔を覗き込む。
「うーん。本当に悩ましい声を出すなぁ、タツミ。声だけで相手を悩殺できるぞ?」
「こんな時に……」
 僕はゼイゼイ言いつつ、タカツキを睨んだ。全身が熱く、背筋と腰の辺りが気持ち悪い。
「――寝室に行こう」
 と、タカツキはあっさりと言った。

「もう放していいぞ……ん?」
 寝室にたどり着いてタカツキが手を放しても、僕はタカツキを放すことができなかった。腕の中の柔らかなぬくもりに、自分でもどうしようもないほど心臓がドキドキしている。
 ぎゅっとタカツキを抱きしめると、何とも言えない満足感と甘美な感触が――。
「やれやれ、そういうクスリなのか……クロサキの奴め」
 呆れたようなため息をつき、タカツキは僕を手荒く突き飛ばした。僕はベッドの上に、だらりと大の字に伸びる。そんな僕をタカツキの人形顔が見下ろした。
「タツミ、身体が辛いか?」
 全身は熱く火照っているのに背筋には悪寒が走る。息遣いまで荒くハアハア言っていて――なんだか駆け回った後の犬のようだ。身体が疼くというのは、こういう感じなのか?
「つ……辛い……」
「俺が必要か……?」
 タカツキの声はしっとりと色っぽい。僕は期待に身体を震わせた――なんの期待だか。
「……必要……かも……」
 優しげなタカツキの微笑みは、そっと僕の髪を撫でるなり嗜虐的な冷笑に変わった。
「俺が下僕なんぞを思いやるか、バカめ。辛いなら自分でどうにかするんだ。面倒だから今晩だけは泊めてやる」
 タカツキはそう吐き捨ててベッドから離れていく。ドアの手前で僕のほうを振り返ると、タカツキは思い出したように付け足した。
「――シーツは汚すなよ、タツミ」
 鬼、悪魔、人でなし!
 閉じたドアに恨めしげな視線を送り、僕は熱に浮かされた身体をもぞもぞと動かした。情けなさと恥ずかしさで朦朧としつつ、僕は一人心の中でつぶやく。

 下僕道は、かくも険しい――。

 ―――第1部幕切れ・第2部に続く――― 
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「早く逃げろ――」

 聞き覚えのある声に言われるまま、僕は転げるようにしてベッドから降りた。
「くっ! どこに逃げた……?!」
 クロサキの声が驚くほど間近に聞こえ、慌てた僕はベッドから這うように離れる。
「クロサキさぁん、停電っすかぁ? なぁーんにも見えないっすよぉ!」
 こんな時でもアカバネの声はひたすらに明るい。というより、とても楽しそうだ。
 辺りは一面の闇。人の気配はいくつもあるけれど、どこに何があるのかはまるで見えない。が、僕は迷わずフローリングの床を這い進んだ。一度覚えた空間は忘れないのだ。
 機材を避け、床にうねるコード類に引っかからず……ドアまでもう少し――あった!
 よろめきながらもどうにか立ち上がり、僕は真っ暗闇の廊下に出た。玄関に向かおうとすると、誰かが僕の肩を押してくるりと反対側に向かせた。目が回って軽くめまいがした。
「――こっちじゃない。向こうへ行け、タツミ」
「アツマ……」
 言いかけた僕の背中を、暗闇の人物は優しく押しやる。僕はふらつく足で廊下を奥へと進んでいった。わずかに明るい廊下のはずれに立った時、僕は声に従ったことが間違いだったのでは、と疑ってしまった。
 窓の外には昨夜と変わらぬきらびやかな夜景が広がり、ぼんやりとした明かりがリビングを照らしている。
 真っ暗だった寝室や廊下に比べ、ここは格段に明るい。これでは見つかってしまう。
「見つけたよ――」
 怖い低音に振り返るより早く、クロサキの手が僕の腕をねじ上げていた。
「あう!……イテテテ……!」
 クロサキは僕を押しながらリビングを突っ切り、ソファーに僕を思いきり突き飛ばす。もがく僕を無理に組み敷き、クロサキが頬を平手で殴った。眼鏡がどこかに弾け飛んだ。
「っ……!」
 目に火花が散る。叩かれた頬がジンジンと熱を持ち、僕は呆然とクロサキを見上げた。
 今、僕は……殴られたのか?
 クロサキの輪郭が薄闇の中で驚くほど大きく見える。クロサキはとっくりと僕の顔を眺めて薄笑いを浮かべながら、再び僕の頬を続けざまに張り飛ばした。
「うっ……くうっ……!」
「――いい声だな」
 クロサキが荒い息をつきながら、僕のシャツをつかんで引き起こした。
「私から逃げようなどとバカなことを考えるな、森川君……君を私の奴隷に仕込むには、少々鞭も必要なようだな?」
「鞭――」
 脳裏に、黒レザーに編みタイツにピンヒールの女王様が浮かぶ――なんてお約束な想像。
「どうして、こんなことを……僕が一体……何をしたっていうんですか」
 確かに停電のどさくさにまぎれて逃げようとしたが、殴られるほどのこととは思えない。酔いつぶれた僕を部屋に連れ込み、くすぐり攻撃を仕掛けるほうがヒドイじゃないか。
「わかっていないようだが、君は私に贈り物として差し出されたんだよ」
「お、贈り物……?」
「君は昨夜、最後の奴隷として高槻綾に身を捧げたのだろう? そしてあの女は用済みになった君を、ブランド物で飾り立てて私の元へ送り届けた……贈り物にするために」
「そんな、嘘です……!」
 そう言い返した僕の耳に、タカツキの声が蘇る――場所はあの時と同じ、この部屋だ。
「嘘ではないよ。あの女は君との関係を否定した上で、私が君をどうしようと関係ない、好きにすればいいとさえ言ったんだ」

 ――あなたが森川巽さんをどうされようと、私には一切関わりのないことです。

「そんな……そんなこと……」
 僕の声は少しずつ小さくなっていった。
 そうなのか? タカツキ――。

 ――煮るなり焼くなり、あなたの好きになさればよろしい。

「しょせん、あの女にとって君はその程度のものだったということだ。奴隷なのてものは、いくらでも使い捨てにできる。飽きられたから、君は私に贈り物として差し出されたのさ」
 追い撃ちをかけるように、クロサキが悪魔のような残酷さで僕に囁きかける。
 しょせんは下僕、主人の意のまま――アキラレタカラ、ステラレタ?
「……そん……な……」
 僕はタカツキに見捨てられたのか? 
 タカツキの冷ややかな笑み。あれは僕をそうした――贈り物に仕立て上げるためだけの道具として見ていたからなのか。だからこそタカツキは、僕を黒崎ビルに送り届けたのか。
 全身から力が抜けていく。そんな僕の心を見透かすように、クロサキがはだけたシャツを広げて僕の脇腹をまさぐり始める――不思議だ……今度は何も感じない。
 さっき無理に飲まされた酒が回ってきたのか、クロサキも部屋も夜景もゆがんで見える。何もかもどうでもよくなってきた。戸惑いも怒りも、怯えすらも、どこかに消えて――。

 ――タツミ、何があっても怯えるなよ。

 ずっと昔に聞いた幼い少年のような声だった。その声が耳に蘇った瞬間、僕の頭の中でスイッチが入ったみたいに、ある記憶が蘇ってきた。
 雨が降りそうな曇り空、見慣れない街に見知らぬ人々――けれど、僕は怖くなかった。僕の手を握って放さない優しいぬくもりが、ずっと側にいて元気づけてくれたから――。

 ――心配するな、タツミ。俺に任せておけ。何故なら、お前は俺の――

「――あんたは……何もわかってないよ」
 僕のそれは、自分でも驚くほど淡々とした声だった。
「何だと?」
 訊き返すクロサキを僕は睨み返した。タカツキ以外の人を睨むなんて、何年ぶりだろう。
「タカツキは僕を見捨てたりしない。何故なら――」
 僕はもう迷ったりしなかった。僕を組み敷いたクロサキすら怖くない。
「タカツキは僕のご主人様だからだ……!」
 僕はありったけの声で言い放っていた。
 その瞬間、まるで待っていたかのようにフラッシュが光った。ピロリン、と明るく場違いな音がした。
 僕とクロサキは――同時にそちらへと眼を向けた。
 夜景をバックにしなやかな影が浮かび上がる。繊細な身体のラインが妙に艶かしい。
「な、何者だ! どこから……」
 天井の照明が瞬いて、ぱっと辺りが明るくなった。
「タカツキ――」
 携帯片手に仁王立ちしたタカツキは、輝くような最高の笑顔を僕に向けた。
「高槻君……どうして君が――」
 タカツキは、豊かな胸元のポケットから鍵を取り出して振って見せた。
「そうか……君には、ここの合鍵を渡していたんだったな」
「あなたが好きに使えとおっしゃってくださっていたので……使わせていただきましたわ。もっともこれが最初で最後でしょうけれど、ね」
 うふふ、とタカツキは女らしく笑い、軽い足取りでソファーに近づいてきた。
「――クロサキさん。そろそろ森川さんを放してさしあげてくださいな。仮にもクロサキ・プロダクツの社長であるあなたが、自社開発の売れ筋商品のように森川さんを押し倒してリアルBLゲームに興じるなど……シャレになりませんでしょう? 」
 ――シャレにならんな、リアルBLゲームか。
「ふっ……今さら現れるとは……森川君を私に贈り物として捧げたはいいが、後になって惜しくなったんだろう? 君をご主人様と呼ぶほど調教した……この奴隷が――」
 クロサキは僕を引き寄せると、背後から首に腕を絡めて固定した――ヘッドロックだ。
「だからこそ、今になって取り戻しに来た――違うか? 高槻君!」
 ああ、やめたほうがいいのに――。
 クロサキにかけようとしたそんな言葉は、僕の喉の手前で止まったまま。僕の予想通り、タカツキの美貌に嗜虐的な冷笑が広がった――売られたケンカをバッチリ買った証拠だ。
「本当に何もわかっていないようだな――」
 冷ややかな声は、さっきまでの女らしさが見事に抜け落ちている。タカツキの人形顔がすうっと冷たい無表情になり、全身から威圧感すら漂わせつつクロサキを見下ろした。
 タカツキの豹変ぶりと口調に、クロサキはわずかに怯んだようだ。
 無表情のまま、タカツキは携帯の画面をこちらにくるりと向けてみせた。
「いい画《え》が撮れたぞ――実に傑作だな、クロサキ?」
 小さな画面には、クロサキに組み敷かれた半裸の僕の姿がはっきりと映し出されていた。ピクリとクロサキが震え、僕の首を締める腕の力が少しだけ緩くなる。
「……こ、こんなことをして……私を脅すつもりなのか? 卑怯だぞ!」
「卑怯がどうした?」
 あっさりと返されて、クロサキは絶句したらしい。タカツキはパチンと携帯を閉じた。
「クロサキ、お前も社長だろうに。綺麗事と正義面で仕事してきたわけじゃあるまい? 会社なんてものはひとつの部隊なんだ。サラリーマンたちは毎日必死に戦っているんだぞ。そのてっぺんに立つ奴が卑怯者じゃなくて、どうやって部隊の者を守るっていうんだ? 戦いは卑怯者が生き残るんだよ。卑怯で結構、卑怯でなんぼだろうが」
 威厳すら漂う声音で、タカツキはきっぱりと言いきった。
「お前は本当にわかっていないようだから、もうひとつ教えてやる。病院と特定の場所以外では、携帯の電源を切りっぱなしにするな――出し抜かれるぞ、クロサキ?」
 クロサキが僕の首を放して携帯を取り出した。慌てたその様子にクロサキの狼狽ぶりが窺える。僕はゲボゲホ咳をしつつ、さりげなくクロサキから離れた。
 タカツキがすかさず僕の腕を取り、ふらつく身体を支えて立たせてくれた。タカツキは顎をしゃくる――下がっていろ、という意味だ。僕は頷いて、タカツキの傍らに移動した。
 ソファーに座ったクロサキは、携帯の画面を睨んだまま微動だにしない。やがて、その血走った眼がタカツキに向けられた。まるで墓から蘇ったゾンビのように蒼白な顔だ。
「貴様……私に森川君を与えたその隙に……私の会社を乗っ取ったな……!!」
 驚いた僕はタカツキの横顔を見た。けれど、タカツキは涼しい顔で鼻を鳴らしただけだ。
「――乗っ取ったんじゃない。お前もわかっているはずだ、クロサキ。これは合意の上の吸収合併、融和的経営統合だよ。クロサキ・プロダクツの株の40%以上、経営に直接関与、役員選出の権利を得るに相当数の株を俺の会社が取得した。それについての話し合いは、先月末から進めていたはずだ――それガラミで、お前だって俺を脅しただろうに」
 ――それは……脅しと受け止めてよろしいのですか?
「クロサキ、俺は何度もお前に言っておいたはずだ。『このまま予定通り話を進めさせていただきます』とな。聞いてなかったのか? 人の話を聞かないと、とことん鈍くなるぞ」
 コイツみたいに、とタカツキは僕を指さした――こんな時にけなさなくても。
「携帯のメールと着信履歴の数が、お前の危機感の数値だ。ハルミが言っていた通り、お前は悪い癖のせいでそれを忘れていたんだよ。敵に出し抜かれる危機感ってやつを、な」
「ハルミ嬢……?」
 つい訊き返してしまった僕をちらりと見て、タカツキが僕の手をつかんで引っ張った。
「――行くぞ、タツミ。もうここには用はない」
「え……あ、ちょっと……」
 タカツキは戸惑う僕の手を引いて、リビングを颯爽と横切っていく。
「……待て……いや、待ってくれ、高槻君!」
 廊下の手前でクロサキが声を上げた。僕が足を止めたので、タカツキも立ち止まった。
「森川君は……君の奴隷なんだろう? だから、君は私の誘いを断った……」
 僕の心臓が軽くドキリとひと跳ねする――誘い、だって?
「本当に何もわかってないんだなぁ……」
 タカツキが呆れたようにため息をつく。ついでタカツキは肩越しに振り返り、リビングに一人立ち尽くすクロサキに微笑んでみせた――思いのほか優しげな笑みだった。
「タツミは俺の奴隷じゃない――下僕の中の下僕、ド下僕だ」
 行くぞ、と先を行くタカツキに、僕は素直に頷いて後に続いた。
「はい、ご主人様……!」

 ―――続く―――
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「今日は来てくれて嬉しいよ」

 深みのある低音で、そう言ってクロサキは笑った。
 場所は夜景の見える高級レストラン。二人連れのカップルが多いが、商談らしいスーツ姿の二人連れも目立つ。いずれの客も話し声は低く、流れる音楽が上品で心地良い。
「こ……こちらこそ、お招きいただいて――」
 僕はかしこまったまま、正面の席についたクロサキを見た。
 眉目秀麗で隙のないスーツの着こなし――まるで俳優のようにカッコ良い人だ。
 クロサキ・プロダクツの社長にして、黒崎グループのご令息。僕には雲の上の人に等しい。
「一度こうして食事をご一緒したいと考えていた――あなたにとても感謝していたので」
「僕のほうこそ、あ……ありがとうございます」
 スプーンを持つ手に汗をかきつつ、僕はテーブルの皿に目を落とした。
 ディナーのコースはもう終盤。めったにお目にかかれない上等の食材に、見せることを意識した綺麗な飾りつけ、一流シェフによる最高の味付け――正直よくわからなかった。
 僕の舌はつくづく貧乏にできている、と実感した。美味しくないと思ったのではなく、場の雰囲気に飲まれた僕には、胃袋に食事を収める作業すら怪しくゆっくり味わう余裕すらない。味がほとんどわからないまま、デザートのタルトも終わってしまったのだ。
 ――何があっても怯えるなよ。
 そんな言葉を残し、タカツキは僕を黒崎ビルに送り届けた後――いずこかに姿を消した。
 念のため会社に連絡を入れると、社長自らが今日は出社しなくてもいいという。社長は今夜の会食を大事な商談のためと解釈していて、『ぜひ頑張ってきてくれ』と激励された。
 何故だろう、僕は――ひどく不安になった。
 僕の知らないところで、何かが起こっている。いや、実際起こっているのは確かなのに、頼りのタカツキの説明は肝心な部分はぼかしたまま――僕にはわからないことだらけだ。
 ――俺に任せておけ。
 ご主人様のタカツキに従っていれば、下僕の僕には何も心配ない……たぶん。
「どうしたのかな、森川君。少し……元気がないようだが。口に合わなかったかな?」
「あ、いえ……すみません。少し緊張してしまって――とても美味しかったです」
 そうか、とクロサキは優しげで穏やかな笑みを浮かべた。
「料理が口に合わなかったかと心配したよ。今日は君のために特別コースをシェフに作らせたんだ。気に入ってもらえたなら良かったよ」
 ところで、とクロサキは声を低めた。
「これから場所を変えようと思うのだが、どうだろう? 森川君」
 クロサキの質問は質問ではなく――それでいいか、という確認に聞こえる。それにタカツキが予見した通りの展開なので、僕は慌てることなくうなずくことができた。
「はい。もちろんです……僕でよろしければ、ご一緒します」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
 クロサキは満足げに言うと、優雅な仕草でオーダーシートを引き寄せた。

「よく眠っているな」
「アルコールの相乗効果で薬の効きがよかったようです」
「気がつくまで待つか――眠っていてはつまらんからな」
「そうですね。怯えた顔がたまらないでしょうから」

 遠くから聞こえてくるそんな声に、僕はゆっくりと眼を開けた。
「おっ、気がつきましたよ」
 若い男の陽気な声がした。
 ふわふわと身体が浮いているような奇妙な感覚――僕はまだ完全に目覚めてはいなかった。ただ、こちらを見下ろす無表情な男の秀麗な顔は知っている。
「クロサキ……さん……?」
「気がついたかな、森川君?」
 にやりと笑ったクロサキは、平素の穏やかで優しげな印象はまるでなかった。ひたすらに、突き刺すような冷たい眼で僕を――ベッドに横たわる僕を見下ろしている。
 ぼんやりと気がついた。壁の色に天井の高さ、この構造――僕はこの部屋を知っている。
「ここは――」
 起き上がろうとした僕の肩を、クロサキの傍らに立つ男が強い力で突き飛ばした。
「うっ……くうっ!」
 身体が跳ね返るぐらいの衝撃に、僕は驚いて息を呑んだ。僕を押さえつけている男は、見たことのない若い男で、仕立てのいいスーツに真っ赤に染めた髪が不釣合いだった。
「へえ……いい声してるな、この人……」
 赤毛が面白そうに僕の顔を眺める――とても嫌な眼つきだ。
「アンタ、どんな声で鳴くのかな?」
「さぞかしいい声だろう。赤羽根《アカバネ》、用意しろ」
 アカバネと呼ばれた男は、僕に嘲るような眼を向けたまま手を放した。
 一体、何がどうなっているんだ?
 僕は必死に考えをめぐらせる。頭の芯に鈍い痛みが残っていて、全身が鉛のように重い。クロサキと一緒に洒落たプールバーに飲みに行き――そこから先の記憶が欠落していた。
 考えていると、突然視界が白く染まった。
「!」
 僕は思わず手をかざす。
 ベッドの脇に大ぶりな照明が据えられ、僕を眩しい光で照らしていた。その手前には、機材らしきものとカメラが置かれている。大きなカメラはプロ仕様の本格的なものだった。
「じゃあ、フルで回しますんで。始めちゃってくださいよ、クロサキさん」
 弾んだ声で言いながら、アカバネがスーツの肩にカメラをえいっと担ぐ。その姿を隠すように、クロサキがベッドに近づいてきた。
 クロサキはネクタイを緩めつつ、最高に恐ろしげな悪人顔で――笑った。

「クロサキさん、これは一体……イテっ……!」
 言いかけた僕の腹の上に、クロサキが馬乗りになった。タカツキとは違って、その長身に見合うだけの筋肉の持ち主だ。間違いなく重いし硬い。
 クロサキは僕の上に馬乗りになり、僕のスーツをもみくちゃにして身体をまさぐっている。何かを探しているようなその仕草は、僕の財布か携帯を探していると思えなくもない。
「……金目のものなら、持ってないです」
 ウッソだぁ、とアカバネがカメラを回しつつ言う――なんでこの状況を撮るんだ?
「アンタ、スッゲェいい腕時計してんじゃん。それ、オメガスピードマスターX33だぜ?」
 そういう名前なのか、これ?
 アカバネの言葉を確認しようと、僕は左腕を持ち上げて腕時計を見てみる。
「スーツはエンポリオ・アルマーニ、腕時計はオメガスピードマスター、香水はブルガリ・アクア……けれど、無駄だ。森川君はブランドに明るくない。すべてあの女の好みなんだよ」
 あの女――?
 その一言に引っかかるものを感じ、僕はクロサキの顔を見た。
「君はあの女に随分と気に入られているようじゃないか。働くところから住むところまで、何から何まで世話になっている――」
 クロサキの言う『あの女』とはタカツキのことだ。けれど、どうしてタカツキのことを知っているんだ?
 ――あの男は邪魔が入ると燃えるタイプなんだ。
 ならば……タカツキの言っていた『あの男』とは、ひょっとして――。
「クロサキさん、まさか……僕の部屋に盗聴器を仕掛けたのは、あなたなんですか?」
 おや、とクロサキは意外そうな顔をした。
「やはり、君は盗聴器の存在に気づいていたんだね。君は部屋では一切喋らなかったから、おかしいとは思っていたんだ」
 僕が部屋で喋らなかったのは、盗聴器の存在に気づいていたからではない。単に帰って寝るだけの一人暮らしの身の上――話し相手もいないし、独り言を言う癖もないだけだ。
「どうして僕を監視していたんですか? 一体、何のために……」
「悪いのはあの女だよ、森川君。高槻綾がいなかったら、私は君に興味を抱くこともなかったのだから」
「え……?」
「あれほどの女が、男との浮いた噂ひとつないのはおかしいと思っていた。だが、調べていくうちに君のことを知って、なるほどと思ったんだよ……奴隷ならば思い通りだ」
 そして、とクロサキは意味ありげに言葉を切った。
「あの女の奴隷を、自分の奴隷にしてみたくなった――そういうことだよ」
 ――あの男は燃えるだろうよ。
「君はあの女に飼われているんだ、そうだろう?」
 間近に顔を寄せ、クロサキは囁く。心なしかハアハア言ってるのは――なんで?
「か……飼うってどういう……?」
「すべてを世話してもらう代わりに、君はあの女の奴隷として生きている。そう――あの女の欲望を満足させるためだけに存在する……真夜中の奴隷だ」
 クロサキは酔ったような口調で、まるでドラマか映画のようなセリフを言う。
 かなり自己陶酔入っているような?……いや、問題はそんなことではなく。
 確かに僕はタカツキにあれこれ世話してもらい、助けてもらうことで今まで生きてきた。タカツキがいなかったら、今の僕もいなかったはずだ。が、断じて真夜中の奴隷などではない。
「あなたは誤解してます。僕とタカツキは、そんな関係じゃ――わあっ!」
 いきなり首を締められ、僕は思わず悲鳴を上げた。が、クロサキはただ僕のネクタイを緩めて引き抜いただけだった。摩擦熱で首の後ろが熱いし、瞬間的に全身を包んだ恐怖に完全に縮み上がった。何を言いかけたのかも、すっかり忘れてしまった。
 遅ればせながら、ベッドに押し倒されている現状をあらためて認識する。
 この状況は、やはりどこかおかしい。何かがズレている。
 そんな考えを補足するように、クロサキが僕のスーツのボタンをはずしていく。やけに丁寧に――途中で、シャツをぐいっと強く引っ張った。
「……っ!」
 ぷつぷつとシャツのボタンがちぎれ飛ぶ。驚いた僕の視界を、細い糸を絡みつかせて飛んでいく半透明のボタンがよぎっていった――そんな、借り物なのに!
「なっ……何するん……ですかっ……うひゃあ、くすぐった――」
 はだけたシャツの間から手を突っ込み、クロサキが僕の脇腹をまさぐっている。笑いのポイントでしかないそこに、ざらついたクロサキの手のひら――爆笑の火種だ。
「うわははははっ!」
 僕は身をよじりながら大爆笑した。クロサキがムキになって、さらに脇腹を触ってくる。
「……ひゃ、ひゃめれふらはい……ふふふっふぁいっ……ひゃはははは!!」
 完全にイッちゃった人状態の僕は、恥も何もあったもんじゃない。くすぐったくて頭がどうにかなりそうだ――『やめてください』も『くすぐったい』も日本語になってないし。
「ダメだよ、クロサキさん。色気なんかゼロ。その人、何も感じてないっぽいよ」
 アカバネの呆れたような声が聞こえる。ふう、とクロサキがため息をついた。
 クロサキが手を放したので、ようやく僕はくすぐり地獄から解放された。
「では、これはどうだろう? 森川君」
 クロサキの手には、小さな酒のボトルがある。有名銘柄酒のミニチュア版だ。
 僕が何の反応も示さないので、クロサキはボトルの蓋を開けて僕の口元に近づけてきた。
 飲め、ということらしいが――おかしいだろ、これは。
 いかに従順な下僕体質の僕でも、この状況が異状なのはわかる。現にクロサキは僕をこの部屋に連れ込み、ベッドに押し倒してくすぐり攻撃を仕掛けたのだ――その上、酒?
「い……いりません。お酒なら、もう充分にいただきました。僕は――」
 どうにかベッドの上に身体を起こすと、依然として僕の太腿に乗ったままのクロサキの顔を間近に見た。意識ははっきりしているし、頭はまだ痛むけれど酒は残っていない。
「僕はこの辺で……失礼します」
 ぷっ、とアカバネが吹きだした――なんで笑うんだよ。
ムッとしつつそちらを見た時、いきなり鼻をつままれて口にボトルを押し付けられた。
「ふぐっ……ふむむむ、んんっ……う、く――」
 不意をつかれた上に鼻をつままれて、僕は流し込まれるまま酒を飲み込んでしまった。
 ヒュウっとアカバネが楽しそうに口笛を吹く。
 その瞬間、何の前触れもなく辺りが真っ暗になった。

 ―――続く―――
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「タイサバタコカツオっ――!」
 
 我ながら意味不明な言葉を口走りつつ、僕は何かに急かされるように飛び起きた。
 瞬間、ガツンと殴られたような超ド級の頭痛が僕を襲った。
 僕はゆっくりと身体を起こして、ベッドの縁に腰掛けた。昨夜の酒のせいかやたらと頭が重いし、動くたびに頭の中でバスケットボールがドリブルドリブルドリブル……。
 いわゆる二日酔いってやつ――をこらえつつ、僕は辺りを見回した。
 白いベッドカバーに、深い焦茶色の木枠のベッド――僕が目覚めたのはそのベッドの上だ。白い壁に白い天井。左に大きな窓があるが、厚めのカーテンがかかっていて外は見えない。
 ここ――どこだ?
 部屋は驚くほどシンプルだ。清潔感があり掃除も行き届いていて、まるでモデルルームか何かのようだ。余計な物がないという点では、僕の部屋とよく似ている。が、こんなに広くないし、落ち着いた色調にまとめられたこの部屋ほどセンスも良くない。
 のろのろと立ち上がろうとした時、ひんやりとしたものが僕の手に触った。そちらを見て――。
「うひゃあぁっ!」
 僕は情けない悲鳴を上げ、ベッドからずり落ちた。頭の中でボールが跳ねまくる。
「痛……」
 思いきり打ちつけた肘と腰よりも、僕はベッドの上に乗ったものに意識が向いていた。
 色鮮やかな緑色の鱗の包まれたひょろりとした物体は、いかつい顔に似合わず安らかに眼を閉じて、とても気持ち良さそうに眠っている。
 時々ちょろりと舌が口から出ていて、どうやらそれが僕の手に触ったらしい。
「イ、イグアナ……?」
 見知らぬ部屋で目覚めて、その隣に女性――それもタカツキが眠っているなんてシチュエーションを期待していたわけではないが、何もイグアナじゃなくてもいいではないか。
 頭痛をこらえつつ何気なく見たベッドの脇に、見覚えのあるものが置かれている。僕は座ったままずりずりとにじり寄った。頭痛に逆らって立つ気力が湧かない。
 見慣れた旅行カバンは僕のものだった。ネームタグに『Tatsumi・M』とある。
 中を調べてみると、僕の着替えや洗面道具一式、そして何故か目覚し時計が出てきた。
 用意したのは、タカツキだろうか?
 僕はそこでぼんやりと昨夜のことを思い出した。

 米俵よろしく担がれて階下の駐車場まで運ばれた僕は、アツマタが運転するタカツキの車で再びいずこかに連れられて――途中から記憶がない。思うに、僕は眠ったままこの部屋に運び込まれたのだろう。アツマタに運ぶよう指示したのは、タカツキだろうし――それならば、この荷物もタカツキが用意したものに違いない。
 携帯、腕時計、眼鏡――それだけがいくら探しても見つからない。他はともかく、仕事には絶対に必要なのだが。
 ぱくん。
 何かが僕が手に持った目覚し時計に当たった。ぎょっとして見ると、イグアナが大きな口をぱっくり開けて僕の目覚し時計にかぶりついている。
「うわあ! 何すんっ……あ、ちょっ……それはダメ……ダメぇっ……あうっ!」
「朝から刺激的な声を出すなよ、タツミ――」
 イグアナと格闘しつつ振り返ると、片手を腰に当てたタカツキの人形顔が僕を見下ろしていた。
 今日の装いは、白いドレスシャツにブルーグレーのパンツスーツ――ビシッとキマっていて実にカッコ良い。見とれるのも悔しいので、僕はさっきのタカツキの言葉を思い出して言い返した。
「どこが刺激的なんだよ……イグアナに尻尾ビンタされてみろ。頭の中でバスケボールが転げ回っていてそれどころじゃ――」
 ぐにぐに――ぐむむむん。
 手を包む妙な感触に視線を戻すと、イグアナは僕の手ごと小ぶりな目覚し時計を口の中に収めようと凄まじい形相をしている――く、食われるぅっ!
「わあぁ、コイツ……何す――」
「――モリカワ!」
 鋭い一声に、僕とイグアナは一緒にビクンと全身を震わせた。タカツキが睨んでいるのは、どうやら僕の腕の中で目覚まし時計を食おうとしているイグアナのほうらしい。
 それにしても、モリカワって……?
「モリカワ、タツミから離れろ」
 混乱する僕を尻目に、タカツキがイグアナの鼻先に指を突きつけ、すうっと移動させる。細くしなやかな指先が示しているのは、部屋の奥にあるドアだった。
 すると、イグアナは僕の手と目覚まし時計を放して、もぐもぐと不満げに口を動かしながら僕の腕から降りた。カチャカチャと、イグアナの爪音が遠ざかっていく。
 哀愁漂うイグアナの背中を、僕はじっと見送ってしまった。そんな僕をタカツキが見下ろす。
「タツミ、ボーっとしてないで手を洗ってこい。目覚し時計も綺麗に拭くんだ。モリカワにはサルモネラ菌がついていることもあるから――」
 サルモネラと聞いて、僕は弾かれたように立ち上がって――バスケボール頭痛に悶絶した。

 手を洗うついでにシャワーを借り、僕は少しだけさっぱりした気分になった。
 家の中は廊下も天井もやたらと広い。迷いそうになりながら寝室に戻ると、タカツキがクローゼットの前でスーツを出したり引っ込めたりして何やら選んでいる。
「――モリカワって、なんだよ?」
 タカツキは涼しい顔で、スーツを両手に僕を振り返った。
「あのグリーンイグアナの名前だ。お前に似ているから――うん、これがいいな」
 両手のスーツを見比べて、タカツキは僕に深い紺色のスーツを差し出した。スーツは見たこともない上質な布地で、同じく見たこともないブランドタグがついている。
「なんだよ、それ?」
 イグアナの名前や由来より、僕には差し出されたブランドスーツのほうが気になる。
「エンポリオ・アルマーニの新作だ。お前ならこのネイビーが似合うだろう」
「アルマーニは聞いたことあるけど……それを僕に着ろ、と?」
 そうだ、とタカツキはあっさりと頷く。
「今夜のディナーには必要だろう?」
 うなずきかけて――僕は驚いてタカツキを見た。
「な……なんで、今夜……僕が食事に行くことを知っているんだ?」
 ――ぜひご馳走したいのだが、どうだろう? 森川君。
 そんな低音が耳に蘇る。
 昨日――黒崎ビルでの打ち合わせはナシだとタカツキに言われた僕は、念のため先方に連絡しておこうと、自分の携帯でクロサキ・プロダクツに電話をした。
 僕は打ち合わせを延ばしてもらうつもりだったのだが、先に社長のクロサキ自らが打ち合わせの日程を後日に変更してもらいたいのだという。さらにこちらの都合で先延ばしにしてもらうのだから、お詫びに食事をご馳走したいと言ってきた――それが今夜だ。
 けれど、それについてタカツキに説明するヒマはなかったはずだ。
「あの男は邪魔が入ると燃えるタイプなんだ」
 タカツキはつまらなさそうに言った。僕の質問の答えに全然なっていない。
「今夜、お前は予定通りクロサキと食事に行け。おそらくあの男はお前を飲みにも誘う」
 淡々とした口調は、まるでクロサキと僕の未来を予見しているかのようだ。
「――だが、タツミ」
 そこでタカツキはスーツを手に、突っ立ったままの僕に近づいてきた。
「お前は俺の下僕として――主人である俺に尽くすか?」
 まっすぐな眼は、驚くほど澄んでいて――少しだけ怖い。昨夜とはまた違う真剣な眼差しに、僕はすぐに答えることができなかった。
「えーと……」
「俺に尽くすか、と聞いている」
 静かな迫力に満ちた声に、僕はタカツキの眼を見つめてうなずく。
「……はい、ご主人様」
 すうっとタカツキの眼が細められた。満足げに微笑んだご主人様は――とても美しかった。
「よし。何があっても怯えるなよ……さあ、着替えろ」
 促されるまま、僕はのろのろと着替え始めた。

「――お前のものだ」
 車に乗り込むなり、タカツキは助手席の僕に革のバッグを手渡した。中には携帯電話と腕時計、ケース入りの眼鏡が入っている。眼鏡は僕のものだが、携帯と時計は新品だった。
「これは……僕の携帯と腕時計は?」
「あの携帯はトレースされているから今夜は使わないほうがいい。腕時計もダメだ。あれにはどうやって仕掛けたのか知らんが、シールトレーサーが付いている」
「シールトレーサーってなんだ?」
 エンジンをかけつつ、タカツキがちらりと横目で僕を見た。
「わかりやすく言えば、GPSの超軽量化・薄型ナビだ。地球上のどこにいても、居所がバレるシロモノだよ。まあ、あの男は金持ちだから――そのぐらい仕掛けられるだろうが」
 つまり、僕の居所を探るためにペンシルだけでは足りなくて、携帯をトレースし、腕時計にもシールナントカを仕掛けていた――ん? ちょっと待てよ。
「あの男って誰だよ? ハルミ嬢以外にも、僕のことを監視している人間がいるのか?」
 タカツキはその問いには答えずに、車をゆっくりと出した。
 地下駐車場から出た車は、そのままマンション前の並木道を抜けて大通りの流れに乗る。
 マンション近くの大通りは、意外と都心に近く建物が密集していた。流れる景色の中、青い看板に『目黒』の白文字が読み取れる。
「目黒にも下僕がいるのか?」
「……『にも』とは、どういう意味だ?」
 込んできた車列に続いて車のスピードを落とし、タカツキはステアリングに両手を乗せたまま僕を見た――怪訝な表情だ。
「横浜にも下僕がいて、目黒にも下僕がいるんだろ?」
「横浜の下僕はお前だけだ。新宿と三鷹にはいるが、目黒に下僕はいない」
 じゃあ、と言いかけた僕に、タカツキは楽しそうにクスクスと笑った。
「さっきの部屋のことを言っているのか? あれは俺の部屋だ」
「え――」
 マンションの最上階、見晴らしのいい南向きの角部屋。シンプルで落ち着いた空間は、タカツキ本人の住居だったらしい――イグアナもいるし。
「タカツキの部屋だったのか……」
「お前の部屋をアツマタに『掃除』させたんだが、すべての盗聴器を取り除くのは難しいと言うんでな……ホテルを手配するのも面倒だし、お前を俺の部屋に泊めることにした」
 盗聴器と聞くだけで、僕は借り物のスーツに包まれた全身に寒気を感じてしまった。
 僕の部屋には、そんなに大量の盗聴器が仕掛けられていたのか――でも、なんのために?
「発信機みたいに、ハルミ嬢が仕掛けたのか? そんなにたくさん――」
「いや、お前の部屋の盗聴器はハルミじゃない。シロウトの仕事ではないとアツマタが言っているし、あいつが取り除けないくらいだから――プロを雇って仕掛けさせたんだろう」
「そんな……いつのまに?」
「一人暮らしのサラリーマンの部屋だ。仕事に出ている平日ならいくらでも時間はある。お前は家族と縁遠いし、恋人がいるわけでもないから予定外の訪問客の心配もない――仕掛け放題だったことだろうよ」
 仕掛け放題、聴き放題――と、僕には全然笑えない冗談を言ってタカツキは笑っている。
 人の気も知らないで――。
「――ついで言うと、俺も監視されているから、お前が俺の部屋に泊まったことはバレている。まあ、あの男は最初から俺とお前の関係を疑ってかかっていたようだから、この際その心理を利用させてもらうことにしよう」
 あの男は燃えるだろうよ、とタカツキは不敵に笑った。
「だから、その……あの男って誰なんだよ」
 どうやらハルミ嬢以外にも、今回の件に関わっている人間がいるらしいと気がついた。
「本当に鈍いなぁ。あの男というのは――」
 と、タカツキは僕に呆れたような眼を向ける。
「――お前がよく知ってる男だよ」
 さらに訊き返そうとした僕は、急ブレーキで危うく舌を噛むところだった。
 車窓の向こうに、空を射抜くような巨大なビルの威容がそびえていた。

 ―――続く―――
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「面白くなってきたじゃないか」

 電話を切るなり、タカツキは実に機嫌良くそう言った。
「どこがだよ。ハルミ嬢は――僕を探しているんだろ?」
 僕は頭痛とめまいをこらえて、隣に座ったタカツキを睨んだ。ところが、タカツキは何ごとか考えているらしく僕のほうを見向きもしない――睨む意味がないじゃないか。
「……ふむ。意外だったのは、ハルミがお前の兄弟のことをまるで知らなかったことだな――ということは……やはり、あいつは独断で動いているということか」
 タカツキは一人納得したようにつぶやく。話の筋道どころか輪郭すら見えていない僕は、いささか酔った勢いもあってタカツキににじり寄った。
「僕の兄貴と弟なんて、今はどうでもいいだろ。タカツキ、何かわかっているなら僕にも教えてくれ。今みたいに宙ぶらりんのまんまじゃ……尻の据わりが悪くて仕方ないよ」
 尻? と、タカツキは僕のほうをようやく見た――どうして『尻』に反応するんだ?
「尻じゃなくて、何かわかってるなら……」 
「ああ、お前の尻は――昔から悪くなかったな、うん。美尻だ」
 ビジリってなんだ? 美人なのに、どうしてそうオッサンっぽいことばかり言うんだか。
「タカツキ、ごまかすなよ。僕は真面目に――」
 僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。グラスを手に持ったタカツキが、じっと僕を見据えて表情を消したからだ。鋼鉄の無表情――下僕を黙らせる無言の威圧だ。
「――いくつか確認したいことがある。まずは俺の質問に答えろ……いいな?」
 威厳すら漂う絶対的な声質は僕の思考を停止させ、従うことのみに意識を向けさせる。
「はい、ご主人様……」
 できるだけ素直に見えるように、僕はしおらしく頷いてみせる。
「会社に戻るまでの間、ハルミがお前に何を言ったのか聞かせろ」
 タカツキがつんと顎を上げる――やれ、という意味だ。僕はたどたどしく、ハルミ嬢と電車で乗り合わせた後、会社に戻るまでの間に交わされた会話を再現した。

「私たちが周りの人たちにどう思われているか……知ってますよね?」
「し……知ってます。けれど、どうしてそんなことを?」
「森川さんは私の言うことを否定も肯定もせず、今のまま普通にしていてくれればいいんです。そうでなくては、あなたはとても……危険なことになりますよ」
「そんな――」
「あなたのためなんです……決して悪いようにはしませんから――」

 ハルミ嬢は熱っぽい潤んだ眼――ある意味必殺技――で僕を見つめた。アイドル系の顔立ちは可愛らしいし、ふくよかな胸と腰つきだって僕の好みなのだが――恐ろしかった。
 『あなたのため』、『悪いようにはしない』と言いながら、ハルミ嬢の言葉は紛れもなく僕に対する脅しだったからだ。
 ――危険なことになりますよ。
「それで仲良く一緒に会社に戻ったのか……さぞかし注目の的になったことだろうな」
 タカツキは淡々と言いながら、自分のグラスに酒を注いで一気に飲み干した。水でも飲んでるみたいに顔色ひとつ変えない――アルコール度数・40度ですよ、ご主人様?
「……そうだよ。僕とハルミ嬢は注目の的だった――」
 会社に戻った僕らを迎えた周囲の眼は、ちょっとした見物だった。見なかったフリをする者、はっきりと好奇の眼を向ける者――いずれ同じことを考えているのは明らかだった。

 今まで隠れて付き合ってきた恋人同士が、ついに堂々と一緒に歩きだした――。

「同僚の一人なんか、僕の肩を叩いて『結婚はいつだ?』なんて訊くし――僕は自分の置かれている状況が、ここまで深刻だとは思ってもみなかったから……ショックだったよ」
 グラスを傾けながらぽつぽつ話すと、タカツキは自分のグラスにおかわりの酒を注いで飲みつつ――僕の視線に気づいたのか、酒瓶を軽く振ってみせた。
「泡盛の20年もの、龍泉だ――酒は強いものに限るだろう?」
 こんなセリフもやたらとオッサンっぽい。が、僕は顔には出さずにタカツキを見つめた。
 ほんのり薄紅に染まった頬に、長い黒髪がさらりとかかる。最高に色っぽい眼つきで僕を見ているが、単に酔っただけでタカツキの眼線には深い意味はない――残念ながら。
「……相当飲んだだろ。大丈夫なのか?」
 タカツキは鼻を鳴らして、胸ポケットから銀のペンシルを取り出した。それを見るなり、僕はタカツキの酔い加減よりも深刻な問題があったことを、あらためて思い知らされた。
「コイツはどこでもらったんだ? ハルミがプレゼントしてくれたわけじゃないだろう?」
「それはない。断じてない。プレゼントなんて――まったく全然あるわけない。前にも言ったけど、僕はハルミ嬢と会社での接点はほとんどないんだ。それにそのペンシルは会社の慰労会で、参加者全員に配られたものなんだよ」
「ああ、あのコーヒーの日の慰労会か……叔父にも困ったもんだな」
 ほろ酔いの顔でタカツキが苦笑する。
 会社の慰労会は毎年恒例の初秋の行事として、10月1日のコーヒーの日にちなんで催されているが、会社はコーヒーとは全然関係ない。社長の趣味が高じて、全社員でコーヒーを楽しむ風変わりな慰労会になっている。そして今年の慰労会の景品がペンシルだった。
「ペンシルがお前の手に渡ったのが慰労会のあった今月1日、その日から今日までの約一ヵ月もの間、ハルミはお前の行動をずっと監視していたことになるが――お前が外堀埋め・兵糧断ちに気づいたのが今朝か――本当に鈍いなぁ、タツミ」
 反論できない。今朝出社するまで、僕はそれらに少しも気づいていなかったのだ。気づいたのは出社直後――偶々挨拶をした先輩社員の一人に話しかけられたから。

「社内では秘密ということになってるけど、正直森川とハルミ嬢は――どうなの?」

 意味がわからなかったのは言うまでもない。僕は違和感を感じながらも、気を取り直して仲の良い同僚の一人にさりげなくその話題を振ってみた。

「なんだ今さら。隠してたって皆知ってるぜ? 森川とハルミさんが付き合ってることは。女子社員と森川宛ての電話には、ハルミさんが常に眼を光らせてるんだろ?……熱いよなぁ」

 何人かに話を訊いて同様の答えが返ってくるに至り――僕はようやくハルミ嬢が、外堀を埋めて兵糧断ちをしていることに気がついた。タカツキが言うように本当に鈍い。
 その後、タカツキに協力と助けを求めたのが今日の昼――もう何日も経ったみたいな気がしているが、それだけ今日一日で僕は心身ともに消耗してしまったのだろう。
「どうしてハルミ嬢はこんなことを……僕には理由がさっぱり……」
 あのなぁ、とタカツキは僕のグラスになみなみと酒を注いで、自分もぐびぐびと飲んだ。
「理由なんか関係ない。いいか、相手の事情なんか考えても時間の無駄だ。重要なのは、お前がこれからどうしたいか――そのためには何をしなくちゃならないか、だ」
 ごもっとも。確かに理由を知らなくても方策は講じられる。が、そう単純に割り切って納得できるなら――僕はタカツキに連絡する前に、あれほど悩んだりしなかった。
「――俺に連絡するまで、何時間歩き続けたんだ?」
 タカツキには僕の行動などお見通しらしい――僕は素直にうなずいた。
「外回りに出ると会社を出たのが、9時頃だったから……3時間くらい、かな」
 それで昼飯時にタカツキと喫茶店で会うことになった。とはいえ、連絡して5分で着く場所をタカツキに指定された時には、さすがに僕も驚いたが。
「悩むとじっとしていない。とにかく歩き回って考えるんだよなぁ、タツミは」
 タカツキの言うように、僕は悩みだすと歩き続ける癖がある。小学生の頃に朝から晩まで歩き続け、市郊外の自宅から遠く離れた横浜中華街まで行ってしまった時には、さすがに警察に保護されて両親にこっぴどく叱られた。そういえば、あの時――。
「まあ、いい。それで……お前はどうしたいんだ?」
 僕は答えにつまってグラスを勢いよく傾け――思いきりむせた。泡盛が強い酒――焼酎だということを忘れていた。美味いが、久しく飲んでいないと飲みかたを忘れてしまう。
「……普通に……以前と同じ生活に戻りたいよ」
 誤解の人間関係に悩まされることなく、盗聴器や発信機で言動を監視されることもない――穏やかで静かな……ささやかだけれど愛しい僕の日常に。
 ふ、とタカツキが息を漏らした――少しだけ笑ったようだ。
「ならば、決まりだ――後は俺に任せておけ」
 自信たっぷりで堂々とした宣言は、僕の心にズシンと響いた。なんて心強いお言葉。
 そこでタカツキはすっくと立ち上がり、キャビネットの電話に向かった。
「――ああ、俺だ。今から言う住所に来い――30分だ」
 言うなりタカツキはすぐに電話を切った。口調から察するに、相手は僕と同じく下僕の一人だろう。詳しく聞いたことはないが、タカツキの下僕は僕以外にも何人かいるらしい。
 それはさておき、タカツキが相手に教えたこのマンションの住所を聞いて僕は驚いた。
 神奈川県横浜市――市内の夜景を見下ろす高台の高級住宅街だ。
 考えもしなかったが、タカツキの車に乗せられて都内からここに移動するまでに、3時間ほど経過していたらしい。ということは、あれはベイブリッジで今は夜の9時過ぎか?
 タカツキはハルミ嬢に、僕の居所については嘘を言っていなかったことになる。
「タカツキ――」
 ん? と、タカツキが振り返る。あれほど酒を飲んだのに、反応はシラフと変わらない。
「その……ありがとう。僕のために……」
 言葉の途中でタカツキは何故か眉をひそめ――いきなりソファーを身軽に飛び越えた。驚いて固まった僕を押し倒して、タカツキが馬乗りになる。腹の上に乗ったタカツキは、柔らかくしなやかで――それはもういい匂いがした。
「俺が下僕なんぞを思いやるか、バカめ」
「え……?」
 吐き捨てるような物言いに呆然となった僕にのしかかり、タカツキは間近に顔を寄せる。
「忘れているんじゃないだろうな? 俺はタダ働きは一切しない。お前は俺の下僕として、俺を喜ばせるに相応しいものを差し出す――お前は言ったな? 何でも差し出す、と」
 鼻先が触れそうなほど迫ったタカツキの眼は、潤んでいてとてつもなく色っぽい。僕は頬にカッと熱が上ってくるのを、どうにかごまかそうとして眼をそらした。
「……う、うん。何でも差し出すよ……お金でも何でも――」
 だったら、と僕の腹からするりと降り、タカツキは仁王立ちして腕を組んだ。
「くだらないことを考えるな。俺に礼を言う必要などない――それより、タツミ」
 立て、と命じられて僕は立ち上がった。が、途中でよろめいて、危うくタカツキにぶつかりそうになる。僕の身体を横から抱くように支えて、タカツキは苦笑した。
「やっぱり足にきたか。お前は酒に弱いからなぁ」
 違う、タカツキがやたらと強いだけだ――とは思ったものの、僕がふらついているのは事実なので言い返せない。よろめく僕の手を引いて、タカツキは歩きだした。
「か……帰るのか?」
「いや、部屋を案内するのを忘れていた。お前はこの部屋の構造を頭に叩き込んでおけ。どこに何があるのかできるだけ正確に覚えておくんだ」
 覚束ないのは足だけで、頭のほうはそれほど酔っていない。僕はタカツキに手を引かれるまま、案内された部屋の構造と位置、調度品や細々とした小物などを覚えていった。
 高級そうなマンションの外観と作りに違わぬ、センスの良い統一感のある調度品の数々。中でも驚いたのは、主寝室の大きなベッドだった――キングサイズってこのぐらいかな?
「ここ、誰の部屋なんだ? 下僕の部屋のひとつか?」
「お前には関係ない――が、部屋の構造や家具の位置、小物――覚えたか?」
 僕はうなずいた。僕の特技は空間記憶だ。一度入った建物の構造や家具の位置などは、一旦記憶すると容易に忘れないし、すべてのディテールに至るまで忠実に脳内で再現できる。
 密かな自慢だけれど、知っているのは僕とタカツキぐらいのものだし、今までにこの特技が役に立ったことはない。もちろん仕事なんかにも全然応用が利かない。
「――よし、出るぞ」
 タカツキは僕の腕をつかみ、いつのまにか自分のバッグも持って廊下へと向かった。
 僕とタカツキが玄関まで来ると、タイミングを見計らうようにドアが開いた。そこに黒革の鋲打ちジャケット姿の、眼つきの鋭い強面の巨漢が立っている――僕は息を呑んだ。
「遅いぞ、敦又《アツマタ》――タツミを下まで運べ」
 アツマタは「はい、ご主人様」と見かけとはおよそかけ離れた従順さで、無表情に僕を肩に担ぎ上げた――気分はまるで米俵――逆さの夜景にタカツキの長い髪が揺れていた。

 ―――続く―――
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「服を脱げ」

 容赦のない一言に、僕は呆然とタカツキの人形顔を見つめた。
 場所はマンションの部屋――最上階、最高クラスのリビングだ。一面ガラス張りの窓の向こうには、きらびやかな夜景が広がっている。さしずめ東京マンハッタン……我ながら意味不明な形容詞だが、それだけ今の僕は焦っている。
 高級そうなマンションの一室で、最高の夜景をバックに『脱げ』と命令されているのが今の僕の状況だった。
「心配するな。この部屋にはお前の部屋のように盗聴器はゴロゴロしてないし、仮にお前のスーツに盗聴器や発信機が仕込まれていても、壁が特殊構造だから電波を通さない」
 タカツキがずっと喋らなかったのは、僕の部屋に盗聴器が仕掛けられているのを見つけ、そのため僕のスーツにも何かが仕込まれている可能性があると考えていたからだ。
 それに僕を心底ゾッとさせたのは、他でもないタカツキが部屋に残した張り紙だった。

『その部屋には盗聴器が仕掛けられている。極力物音を立てずに部屋を出て、地下駐車場に降りてこい。俺は車で待っている』

 駐車場で合流後――車に乗せられて居眠りから覚めると、タカツキは僕を連れてこの部屋にきた。タカツキの部屋かと訊くと、違うという。それでいて、勝手知ったる我が家も同然の態度で鍵を開け、僕をリビングに通すなり――。
「タツミ、さっさと服を脱げ。ここなら誰にも聞かれないし、居所もバレない」
「いや、そういうことじゃなくて……」
 お前なぁ、とタカツキは腰に片手を当てて顎をつんと上げた――気高い女王様のように。
「照れるような年でもないだろう? 俺はお前の裸なんか見慣れている」
 ひどい言われようだが、これは事実だから仕方ない。それは恋人同士だからとか、そうした色っぽい話とは……およそかけ離れた次元の話だったりするのだが。
 前提はそう――タカツキが女ではない――ということ。
「早く脱げ、タツミ」
 少しも苛立っては聞こえないが、僕は急かされたようにスーツのボタンに手をかけた。
 僕が脱いだスーツの上着を受け取り、タカツキは事務的にポケットを調べていく。僕がシャツを脱ごうがスラックスを脱ごうが、こちらには見向きもしない。
 最後にボクサーパンツ一枚になると、タカツキは僕に向けて細長いものを振ってみせた。銀のペンシルはカバーが取り除かれ、細長い緑の基盤に糸のようなコードが張り渡してある。精巧な作りだが、そんな部品がただのペンシルに必要とは思えない。
「これは発信機だ――お前の居所がハルミに知れたのはコイツのせいだな」
 よくできてるな、と面白そうに眺め、タカツキはにやりと笑った。
「は――発信機って……どうして僕のペンシルに?」
 タカツキはその問いには答えずに、ペンシル片手に近づいてきた。何の前触れもなく、いきなり僕のパンツを引っ張って中を覗き込む。
「うわっ……な、ななな――何すんっ……!」
「――ここには何もないな」
 僕の動揺など知らぬ顔でさらりと言って、タカツキはパンツから手を放した。パチン、と間抜けな音がした。
 何もないって――それはあんまりでは? 一応、僕にも男の証というものが……。
 タカツキはそこで僕の全身をとっくりと眺め、不機嫌そうに腕を組んだ。その様子には、男のパンツの中身を見た後の反応――照れや後ろめたさのようものは微塵もない。
「お前、しばらく見ないうちに痩せたんじゃないか?」
「そう……かな?」
「ランニング、サボってるんだろう。筋肉が落ちたら見栄えが悪いし、健康を害するぞ。他はどうでもいいが、筋肉だけは鍛えておけ」 
 タカツキは例によって命令口調で言った――ご主人様の下僕への命だ。
「……わかりました、ご主人様」
「ま、それでも以前に比べて……アレは立派になったような気もするがなぁ」
 とても綺麗な笑顔なのに、言ってることはまるで年かさのオッサンだ。およそ年頃の女性のセリフとは思えない。笑顔のままタカツキは、固まった僕の眼鏡も奪い取ってしまう。
 顔から火が出るほど赤面しつつ、僕はタカツキがこういう奴だということを再認識した。
 やっぱりタカツキは男だ――と。
 戸籍上も肉体的にもタカツキは女性だが、その精神、脳、心――中身は男性なのだ。
「タツミ、そのままじゃ冷える。向こうにバスルームがあるから、ゆっくり温まってこい――話はその後だ」
 タカツキはくるりと背を向け、リビングの奥へと姿を消した。ぽつねんと残された僕は、渋々パンツ一枚の情けない格好のまま、バスルーム――よく見えない――に向かった。

 バスルームは――庶民の僕には豪華で広すぎた。それでもバスタブに満々と満たされたお湯で温まると、疲れもほぐれてほっとひと息つける気分になった。
 脱衣所のカゴの中には、清潔そうな白いシャツと紺のスラックスが入っていた。僕は着替えを持ってきていないから、これはタカツキが用意してくれたのだろう。
 もう一度履こうと思って、そこらに置いておいたはずの僕のパンツが消えている――と、カゴの下に僕が愛用しているものと同じ新品のパンツが袋入りのまま置いてある。
 サイズを教えた覚えもないのに、着替えは僕が選んだ服よりも身体にピッタリだった。
 なんて用意のいい奴――。
 バスルームから出ると、観葉植物が並ぶキャビネットの前で、タカツキがこちらに背を向けて立っている。声をかけようとして、僕はすぐに思い直した。
「――ええ、本日は貴重なお時間を割いていただいて、こちらと致しましてもとても有意義な話し合いをさせていただき――大変感謝致しておりますわ」
 艶のある滑らかな口調は、とても女らしく上品だった。僕と話す時とは大違いだ。
 僕の予想通り、どうやらタカツキは電話中らしい。突っ立っているのもなんだから、僕はタカツキの背中を追い越して、窓の夜景を臨むソファーに座った。
「あら、心外ですわ。そんなつもりはございません――ええ……そうですわね、残念ですけれど――私は予定通りお話を進めさせていただく方向で考えております」
 電話の相手は仕事関係か取引先だろうか? タカツキは日常生活では、それはもう見事なまでに美人でスタイル抜群の仕事もできる『カッコ良い女性』なのだ。
「うふふ……楽しいことをおっしゃるのですね。私がそのような方とお付き合いしていると、本気でお考えなのですか?」
 ゾクゾクするような色っぽい含み笑いの後、タカツキが悪戯っぽい口調で言う。
 ――魔性だ、タカツキは。
 同じ部屋にいるのだから聞こえないフリをするのもワザとらしい。かといって黙って聞いているのもどことなく居心地が悪い。僕はテーブルに用意されたグラスを取り、銘柄もロクに確かめずに酒瓶の中身をどぼとぼと注いだ――眼鏡がないとよく見えないし。
「森川巽の行方――?」
 僕は口に運びかけていたグラスを、危うく取り落としそうになった。驚いて振り返ると、タカツキも受話器を持ったまま、意外そうに僕を見つめている。
「さあ――知りませんわ。どうして私が知っているとお考えなのです?」
 相手は――誰なんだ?
 タカツキの仕事関係だろうとなんだろうと、僕には関係ない話だと――そう思っていた。なのに、今――タカツキと電話の相手との会話に急浮上しているのが僕だなんて。
 会話から察するに、その人物は僕のことを探しているようだ。だとすれば――。
 ハルミ嬢か――?
 せっかく温まったのに、また寒気を感じてしまった。僕は勢いグラスの中身をあおった。瞬間、喉を焼く強烈な熱にむせそうになって、僕は口元を押さえた――なんだ、この酒?
「――それは……脅しと受け止めてよろしいのですか?」
 その声質が僕と話す時に近くなる。僕は口元を押さえつつ、タカツキに視線を戻した。
 無表情な人形顔が僕を睨んでいる。凄絶なまでに冷たい眼で――僕は怯えた。
 タカツキは怒っている。相手が怒らせたのか、僕が怒らせたのかは――不明。
「それはそれは……たいそうな誤解をされているようですね。あなたともあろうお方が、そのような邪知をお持ちだとは……意外でしたわ。けれど、そうですわね――」
 タカツキの口調はあくまでも静か。その口元に、すうっと冷ややかな笑みすら浮かぶ。
「あなたが森川巽さんをどうされようと、私には一切関わりのないことです。煮るなり焼くなり、あなたの好きになさればよろしい――」
 鬼っ、悪魔っ、人でなしっ――。
 そうは思ったものの、僕はタカツキ蛇に睨まれたタツミ蛙――動けない。
「――申し訳ありませんが、この後スタッフとの詰めの会議が控えておりますので――ええ、こちらと致しましては、予定通りお話を進めさせていただきますわ……失礼致します」
 タカツキは受話器を本体に戻した。携帯を使わないのは、特殊構造の部屋のせいか?
「あいつめ――なかなかやってくれるじゃないか」
 そう言ったタカツキは、忌々しげに口元をゆがめて――不敵に笑った。
「今のは……誰なんだ?」
「――お前には関係ない」
 例によって有無を言わせぬ口調で、タカツキはきっぱりと言いきった。が、そこで珍しく僕の顔を見て――思案げに眉根を寄せた。
「今回のは……俺の問題のはずなんだがなぁ。お前をさっさと保護するべきだったか――害はないと思って放置したのが甘かったのか……ううん」
 ――シャレにならんな、リアルBLゲームか。
 そんな独り言めいた言葉をつぶやきながら、タカツキはソファーにどさりと座った。
「今の……僕のことを話していたじゃないか。関係なくはないだろ――ハルミ嬢か?」
「そういえば、ハルミとは仲良く会社に戻ったのか?」
 タカツキは話題を変えた。途端に、僕は一日の疲れがぶり返すような感覚に襲われた。
「……一緒に戻ったよ。電車に乗ったら、ハルミ嬢も――」
 そこで電話のベルが鳴り響いて、僕は思わずビクンと身体をすくめてしまった。
 タカツキは面倒臭そうに立ち上がると、キャビネットに近づいていった。受話器を持ち上げ、僕に向けて軽く指先を唇に当てたので、すぐに頷いてみせた。
 僕はとりあえず酒の銘柄でも確かめようと、ラベルに顔を近づけた――泡盛ぃ?
 40度――むせるほど強いはずだと納得すると、タカツキの声が耳に飛び込んできた。
「あら、ハルミさん」
 聞いた瞬間、僕は危うく声を上げそうになって、タカツキに怖い顔で睨まれた。
「――ええ、とても。あなたもお元気?」
 考えてみれば、タカツキとハルミ嬢は従姉妹同士なのだから、こうした電話のやり取りがあっても不思議ではない。けれど、このタイミングで――電話がくるか?
「今日はメールをありがとう。ええ、事情は察しているつもりよ」
 メール――僕の脳裏に、喫茶店での光景が鮮やかにフラッシュバックする。
「森川巽さん? いいえ、知らないわ……彼が家にいないって、どういうこと?」
 そこで僕はタカツキの意図に気がついた。タカツキはわざとハルミ嬢の言葉を反復して、僕に聞かせている。タカツキは会話中、めったに相手の言葉を繰り返すことがないのだ。
 話から、ハルミ嬢も僕のことを探しているらしい。ならば、さっきの電話は――?
「私? 私は彼がどこに行ったかは……ああ、そういえば――」
 何かを思い出したような声に、僕は少しだけビクついてタカツキを見た。
「思い当たることがあるわ。ハルミさん、森川さんのご兄弟のこと……あら、知らない?」
 クスクスと女らしく上品に笑って、タカツキは僕を見た――とても楽しそうだ。
「私が今日、森川さんと会ったのは相談されたからなの」
 まさか、全部バラすつもりじゃ――ないよな?
「森川さん、ご兄弟とほとんど行き来がないのよ。けれど、昨夜実家のお父さんが倒れられたらしくて、森川さんはなんとかご兄弟のお二人と連絡を取りたいって――ええ、それで私が仲介をお願いされたの。幼なじみのよしみで、ね」
 この大嘘つきめ――。
 確かに家族とは連絡が取れないが、それは僕が自主的に連絡しないだけだ。それに倒れるも何も――父親については今年7回忌の法要を済ませたばかり。無論、タカツキもそれを知っている。
 僕の呆れ顔など、さらりと無視してタカツキは続ける。
「だから、そうねぇ……森川さんは横浜に戻ったんじゃないかしら? 森川さん、ベイスターズとFM横浜で育った生粋のハマっ子だと言っていたし、実家もそちらのはずよ」
 それは本当だ。けれど、そんなことをハルミ嬢に話す必要があるのだろうか?
「あら、意外ね。森川さんがあなたにも言わないことがあったなんて――まあ、いいわ」
 うふふ、とタカツキは、それはもう色っぽく笑った。
 僕は軽く頭痛とめまいがしてきた――酔いのせいだけではない、たぶん。

 ―――続く―――
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Up— posted by 森川巽 @ 01:56PM   Comment[0]  Trackback[0] 
「ででで、出たよぅ!」

 相手が出るなり、僕はそう言っていた。
「何が、だ? 新作ゲームか、それとも幽霊か、はたまたお前にしてはありえそうもない、幸運に恵まれた宝くじの当たりか?」
 淡々とした口調は、ついさっきまで一緒にいたタカツキのものだ。歩いているのか、携帯越しのタカツキの息遣いはやけに色っぽい。ふと、タカツキはそこで声をひそめた。
「まさか……毎朝トイレでお目にかかる、フルサイズワイドスクリーンにモザイクな物体エックス様じゃないだろうな?」
 ああ、さっき喫茶店で食べた食事が不味くなるような気がするし、その言葉と口調は全然色っぽくない――いや、今の論点はそんなことではなく。
「違うよっ……ハ、ハルミ嬢……っが、で……出た……んあっ!」
 一瞬タカツキは絶句したらしい。すうっと息を吸い込み、さら声をひそめて訊いてきた。
「――やけに艶かしい声だな。一体、お前はどこで何をしているんだ?」
「どこが艶かしいんだよ。接触事故連発未遂……今は駅前通りだよ」
 僕はすかさず言い返した。それどころではない。
 大股の急ぎ足で歩いていたため、僕はふらふらよろめく自転車のオバちゃんとぶつかりそうになり、ついでに買物袋とバギーカーで歩道の横幅いっぱいになっている若い奥様を避けようとして、危うく自転車置き場にダイブするところだった。
「駅前か――会社に戻るんだろう? ハルミはどうしている?」
 そこまで言って、タカツキは思い出したように続けた。
「コケてケガしたんじゃないだろうな?」
「それは――平気。なんとか歩いてる」
 ならいい、とタカツキはたぶん……うなずいた。多少は僕のことを気にかけてくれているようだ。
「僕はこれから会社に戻るけど、2時に打ち合わせのため黒崎ビルに行かなくちゃならない。今はまだ営業だから――ハルミ嬢は僕の……」
 僕は振り返らないようにしながら、辺りに視線を走らせた。
 駅ビルの前を過ぎると、ロータリーにたむろするタクシーの車列が続いている。買物客、サラリーマン、OL、学生……急に増えた人ごみの間にガラス張りのショーウインドーをみつけ、僕はガラス越しにさりげなく後ろを確認してみた。
 ほんの一瞬、水色のスーツが二人連れのサラリーマンの間から覗く。
 ざわざわと背筋に悪寒が走るのを、僕は携帯を耳に押し付ける手に力を込めることでごまかした。
「――僕の15メートルほど後方に、いる……」
 よし、とタカツキは何が『よし』なのかわからない納得をした。
「そのまま会社に戻れ。だが、黒崎ビルの打ち合わせはナシだ。他の出先から直帰もしなくていい。会社にいろ。そして退社時間になったら、まっすぐ部屋に戻るんだ」
 いいな? と、念を押されて僕は素直にうなずき……すぐに思い直した。
「あ……いや、その……黒崎ビルの打ち合わせは僕が行かないと――」
 業界最大手の黒崎グループの傘下、クロサキ・プロダクツとの打ち合わせは、営業になって以来ずっと僕が担当してきた。取引相手として資金も人脈も潤沢な黒崎グループとの橋渡し役として、そこそこ責任もあるし、何より――。
「お前は黒崎に気に入られているんだろう。叔父に聞いたよ。お前がインフルエンザをこじらせて休んだ時、代役を向かわせて大いに不興を買ったそうだな?」
 確かに、僕は黒崎グループのご令息にしてクロサキ・プロダクツの社長・黒崎聡司《クロサキ・ソウジ》氏に気に入られているらしい――理由は不明だが。それはそうと、タカツキはそんな情報をいつのまに仕入れているんだろう?
「そこまでわかってるなら――」
「いや、会社で待っていればわかる。お前は退社時間になったら、まっすぐ部屋に戻れ」
 いいな? と、もう一度念押しして通話を切りそうなタカツキに、僕は慌てて言った。
「待ってくれ。ハ、ハルミ嬢は?」
 そもそも僕がタカツキに電話したのは、背後についてくるハルミ嬢のことがあったからだ――思い出すだけでもゾッとする。
 喫茶店の窓越し、通りの向こうのビルの前に佇んだハルミ嬢は、じっと僕を見つめていた。眉間に皺を寄せて、見つめる僕を射殺しそうなくらい殺気のある怖い眼で――。
 その後、喫茶店を出て携帯電話を取り出すまで、ほとんど記憶がない。後ろからついてくるハルミ嬢を見て僕は頭が真っ白になり、軽いめまいとパニックに襲われて――結局タカツキの顔しか頭に浮かばなかったのだ……もう悔しいなんて言ってられない。
「――ハルミのことは放っといていい」
「は?」
 僕は間抜けな声を出したが、タカツキはさらに淡々と言った。
「心配するな。ハルミはお前を食ったりしない。それよりも、お前は俺の指示に従っていればいい――我が下僕よ、反論はあるか?」
「……ありません、ご主人様」
 素っ気なく切れた携帯のボタンを押し、僕はのろのろとポケットに携帯を戻した。
 タカツキは頼りになるとは思う。実際、僕にとってのご主人様なのだから、反論の余地などあろうはずもない。タカツキの指示に従っていれば何も問題ない、と何の根拠もなく思ってしまう僕もどうかしているのか……あるいは自分で考えるのが嫌なだけか。
 それとも……僕はこうした従順な下僕の資質のようなものが、元々備わっているんだろうか? そもそもタカツキとの初対面でも――いや、今はその話はやめよう……気分が沈む。しょせん下僕のヘリクツだ。
 知らず足取りが重くなっていた。駅の改札を抜け、ホームに入ってきたばかりの電車に何も考えずに乗り込む。意識ではなく身体のほうが覚えている感覚で、僕はいつも通りドア近くの吊り革に手を伸ばした。
 その時、ふわりといい匂いがした。タカツキのものとは違う、柑橘系の爽やかな香水だ。香りに誘われるように振り返ると、目の前にハルミ嬢が立っていた。
 ででで、出たよぅ――。

 夕暮れは早く、近くの公園の木々が真っ黒な影を落としている。森に囲まれた神社の鳥居が坂道の向こうに見え、僕が住むマンションはその坂道の途中にあった。
 マンションの隣の空きビルは、青い防水シートに覆われて取り壊しの日程が記された看板が掲げられた後――何故か解体工事は始まらないまま半年が過ぎている。他にもテナントが見つからない雑居ビルと、空き部屋ばかりが目立つアパートが軒を連ねている。
 都内なのにコンビニもなく、駅前まで行かなければ自販機もない。それでも閑静な住宅街には違いなく、僕はここに住んで初めて静かな夜というものがあることを知った。
 けれど、いつもは静かな通りに落ち着きを感じるのだが、今夜は空々しい虚しさばかりを感じさせる。昨日までと変わらない景色が違って見えるのは、僕の脳内フィルターが変わったせいなのかもしれない。要するに、目線が、視点が、感覚が――変質したのだ。
 僕は重い足取りでマンションの階段を上った。これまた身体が覚えている感覚のまま、玄関の鍵を開けてドアを抜けると、入ってすぐの壁に何やら貼り付けてある――今朝、部屋を出る時にはなかったものだ。
 ドアを閉めて明かりのスイッチを入れ――僕はその張り紙を手に取った。
 見るなり、僕は再び全身に寒気を感じた。ざわざわと悪寒が背筋を駆け上り、肌にはブツブツと鳥肌が立ち始める――ぞわぞわぁっ!
 震える手で紙を折りたたみ、僕はそれを手に持ったカバンに入れて――部屋を出た。鍵をしっかりとかけて、たった今上ってきたばかりの階段を急ぎ足で降りていく。エレベーターを使わないのは、閉所恐怖症のせい――狭い空間は大嫌いなので、六階にある自分の部屋から一階まで断固として階段を使う。
 いつもは一階のホールに抜けるところを、僕はさらに階段を下へと降りていった。この先には、マンションの住人専用の地下駐車場がある。
 白っぽい照明のせいで、やけに寒々しく感じる無機質なコンクリートの柱の影に、僕は目指すものを見つけて足を速めた。ほとんど駆け足で近寄ると、シルバーの車――アウディA8のドアが内側から開いた。
 僕は迷いもなく助手席に乗り込んだ。予想通りタカツキが昼間と変わらぬ姿で運転席に座っている。
 口を開こうとすると、指先を口元に当てられた――喋るなという意味だ。
 そのままタカツキは、エンジンをかけて車を出した。
 車は地下駐車場から滑り出て、暗い坂道をゆっくりと降りていった。いつもは歩きながら眺める景色が、車窓に飛ぶように過ぎていく。
 ちらほらと明かりの点る駅前を通り過ぎ、車はガード下をくぐって僕の知らない道を走り抜けていく。こんな時でなかったら、辺りの景色を眺めて楽しむのかもしれないが、僕はくたびれたスーツと同じく疲れ果てて深くシートに沈みこんだ。
 そういえば、車も狭い金属の箱だよな……。
 怖くないのは、タカツキがいるからなのか――そう思いながら目を閉じると、途端に眠気が襲ってきた。

「お前は今日から俺の下僕だ……!」
 僕を指さして、少年はそう言い放った。
 場所は公園の隅の物置小屋。僕は涙に濡れた情けない顔で、その子にすがるような眼を向けていた。開け放ったドアの前に仁王立ちした少年を、夏の強い日差しが縁取っていて、まるでたった今天から降臨した天使か何かのようだ。
「僕――助けてくれたの?」
 と、僕は少年の言葉とはまるで関係ない言葉を返した――我ながら間抜けな子供だが、少年は気にしたふうもなくうなずいた。その表情は年不相応に凛々しい。
「そうだ。俺がお前を助けた――感謝しているか?」
 少年の言葉に、僕は力いっぱいうなずいた。とにかく助けてくれたことが嬉しかった。 
「ありがとう!……その、カンシャって……何?」
「ありがとうと思っているか、ということだ」
 それなら、と僕は何度も何度もうなずいた。
 僕はいわゆるいじめられっ子だった。面と向かってバカにされたり、ひどい言われようなどは日常茶飯事で、公園に呼び出されては殴る蹴るの暴力も受けていた。空手と柔道を習っている兄貴と弟が、やたらと腕っぷしが強かったのも災いしている。ケンカの強い森川兄弟を兄と弟に持つにも関わらず、格闘技に無縁な僕は兄貴と弟に勝てない連中の格好の餌食だった。たいていは兄貴も弟も不在時に呼び出されるし、両親は仕事で家にいないことのほうが多い。僕を助けてくれる人間は皆無だった――そう、この少年に会うまでは。
 いつものように殴る蹴るの後、いじめっ子たちは僕を公園の隅の物置に押し込んで鍵をかけてしまった。暗くて狭い箱の中――僕は泣き叫び続けた。涙も声も涸れようかというくらい時間が過ぎた頃、目の前の少年が物置の鍵を開けてくれたのだ。
 そして――さっきの少年の言葉だ。
「ありがたいと思っているなら、お前は今日から俺の下僕になれ」
 少年はもう一度繰り返した。
 その時、僕は小学校に入る少し前――目の前の少年はそれより年上なのは確かだが、およそ小学校低学年の子供が口にする言葉とは思えない。
「ゲボクって――何?」
「俺の僕《シモベ》、俺の手下」
 シモベとテシタもよくわからない。
「俺をご主人様と呼べ――それが下僕だ」
 それなら、なんとなくわかる。僕はうなずいた。
「わかった。僕は下僕で、えーと……」
「俺の名前は高槻綾《タカツキ・リョウ》だ」
 察したらしい少年――リョウが、きっぱりと言う。
「あ、僕は森川巽っていうの。んで、リョウ君が僕のご主人様。僕はリョウ君の下僕」
 それでいいの? と訊くと、そうだと返された。
 リョウ君が女だと気づいたのは、それから何年も経ってからだ。我ながら本当に間抜けだ。だって、リョウって名前――女の子だとはまったく思えないじゃないか。とはいえ、それはタカツキの男の子のような格好にも理由があったのだが――。

 いきなりぎゅっと耳たぶをつかまれ、僕は驚いて飛び起きた。
 夢うつつに過去の記憶の中を漂っていたが、耳の痛みにぼやけた視界が一気に開ける。
 目の前にタカツキが屈み込み、助手席のドアが開いていた。冷たい夜気が心地良いが、タカツキは無表情に顎をしゃくった――降りろという意味だ。
 車を降りて、僕はビックリした。
 目の前にきらびやかな夜景と――高級そうなマンションのエントランスが広がっていた。

 ―――続く―――
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Up— posted by 森川巽 @ 01:47PM   Comment[0]  Trackback[0] 
「なんでそうなる?」
 
 話を聞き終えるなり、返ってきたのがその一言だった。
 場所はいつもの喫茶店。昼食時のサラリーマンで窓際のボックス席は埋まっている。オフィス街の片隅にあるここは、サラリーマンが商談や休憩、食事に訪れる手頃な店なのだ。
 僕は問いには答えずに、じっくりと相手の姿を眺めてしまった。
 濃紺のスーツにグレーのタイ。白磁のように滑らかな肌に、一度も染めたことがないという黒髪。しなやかな指先で火をつけていないタバコをもてあそびつつ、僕と眼が合うと人形めいた美人顔でにっこりと笑う。仕草も表情も自信に満ちていて、何より様になっている。
 カッコ良いのだ、この――タカツキという奴は。
「聞いているのか、タツミ」
 少しも苛立っていない声で言いながら、タカツキは僕の顔をじっくりと見返した。僕は眼鏡を押し上げながら、こちらは苛立った声で言い返す。
「聞いてるさ……だからこそ、お前に協力してほしいんだよ、タカツキ」
「そこがわからん。どうして俺がお前に協力するんだ? 俺がお前に協力しなきゃならないもっともな理由を――」
 言いかけて、タカツキは何かに気づいたようにポケットをまさぐった。携帯を取り出して、口を開きかけた僕に『少し待て』と目配せする。画面を確認するなり携帯をポケットに戻すと、タカツキは何ごともなかったように僕に向き直った。
「――もっともな理由を言ってみろ」
 何ごともなかったはずはないのだが、それまでの話をそのまま続けられて僕は絶句した。
「おい、今のは会社からのメールか? 重要じゃないのか」
 タカツキはにっこりと笑った。タカツキが笑うと、辺りの雰囲気が急に華やかになる……それも少し悔しいが。
「今はお前の話を聞いている」
 有無を言わせぬ口調できっぱりと言う。
 つまり、何者からのどんなメールだろうと『お前には関係ない』と暗に言っている。ついでに、『何が優先事項かは俺が決める』と宣言している――この場の支配者は間違いなくタカツキなのだから仕方ない。
「言ってみろ。どうして俺がお前に協力しなくちゃならないのか」
 笑顔なのだが、命令口調の上に威圧感たっぷりだ。
 美人に笑顔で命令される僕って一体――。
 僕はため息をついて、もう一度眼鏡を押し上げた。 
 
 僕……森川巽《モリカワ・タツミ》は、ごく普通のサラリーマンだ。大学を現役で卒業できたはいいが、就職のアテがなくて途方に暮れていた。そんな僕を拾ってくれたのが、タカツキとタカツキの叔父さんだった。
 タカツキは僕より2コ上で、大学卒業後に会社を興して今や立派な実業家だった。幼馴染というそれだけの理由で、タカツキはそれほど仲が良いともいえない僕のために手を尽くしてくれた。
 まるで、大金持ちのおじ様が寒空に凍える赤貧少女を拾ってあれこれ世話してくれるように、住むところから働くところまで必要なものはすべて手配してくれたのだ。僕はタカツキを『ご主人様!』と、真面目に仰ぐほど深く感謝している。
 そして、タカツキ――ご主人様は、下僕の僕にこうおっしゃった。
 
 ――お前は自分のために働くのではない。だが、俺のために働くのでもない。お前は――。
 
 タカツキは僕のご主人様で、僕は下僕中の下僕――ド下僕だった。
 現在、僕はタカツキの紹介で入れてもらった会社で真面目に働いている。最近ではその働きぶりが認められて、管理部に異動が決まった。わずかながらの昇給が見込めるし、僕としてはよくやっているほうだと思う。
 ところが、ここで僕を悩ませる問題が持ち上がった。悩みに悩んだ末、僕にはタカツキの顔しか思い浮かばなかった……これもかなり悔しい。
 連絡を取ろうとタカツキの会社に電話をすると、外回りで帰ってこない日が続いているという。タカツキが自ら手がけたプロジェクトがそろそろ総仕上げにかかっているらしく、関連会社と関係取引先との打ち合わせのため社にいる時間の方が短いのだそうだ。
 仕方なく携帯にかけると、忙しいはずのタカツキは「悩みがあるなら、ここに来い」とだけ言って携帯を切った――その時点では、悩みも何も言ってない。というより、そんなヒマすらない。交わした会話は――。

「あ、僕――森川だけど」
「悩みがあるなら、ここに来い」

 そうして今、向かい合ってここ……喫茶店の窓際席にいる。話を戻して、僕の問題とは――。
「社長令嬢、ハルミ……可愛いじゃないか」
 見透かすようなタカツキの視線に居心地の悪さを感じつつ、僕はさらにため息をついた。
「可愛いのは認めるよ。美人だし、胸も腰つきも僕の好みだ――けれど」
 けれど、ハルミ嬢は困った人だった。
 高槻晴美《タカツキ・ハルミ》は、僕が身を置いている会社の社長令嬢だ。名前からもわかる通り、ハルミ嬢はタカツキとは親戚関係にある。とはいえ、血のつながりは一切なく、叔父さんの再婚相手の連れ子がハルミ嬢なのだそうだ。
 何が困ったかというと、例えばここに城があったとする。城は外堀を埋められて、兵糧を断たれている。持久戦でじわじわと敵の気配を感じつつ、城は逃げることも叶わない――だって城だからな……動けるワケないし。
「――お前はいつのまにか『ハルミ嬢の恋人』ということになっていた。つまり、ハルミがそう言いふらしたことで外堀を埋められたわけだ……ん? 兵糧ってのは何だ」
「情報だよ。僕に直接入るはずの情報が、今やハルミ嬢のフィルター越しにしか届かない。取引先の会社関係、僕の同僚に後輩……女性が一切近づいてこない、というか近づかせないようハルミ嬢が目を光らせているんだ。少しでも女性の香りがする話はなかったことにされ……電話の取り次ぎすらなくなってしまった」
「ふうん。じゃあ、頼りになる味方はいない。孤立無援、四面楚歌、背水の陣」
 たたみかけるような容赦のない言いように、僕は恨みがましい視線を向ける。タカツキはタバコをくるくる回しながら、形の良い唇の端を持ち上げた……嗜虐的な冷笑だ。
「で? 寝たのか……?」
 からかいの色のない淡々とした問いは、いくら僕が鈍くても居眠りなどを指すのではないとすぐにわかる――これでも今年で25歳だ。僕はすかさず言い返した。
「寝てもいないし、ロクに口も利いたことがない。顔を合わせることだってほとんどないんだよ。それでも周りの人には、僕はハルミ嬢の恋人ってことになってしまっている」
 森川君は晴美さんの恋人――会社の同僚は皆そう思い込んでいる。いや、同僚だけではなくタカツキの叔父さんにあたる社長ですら、意味もなく僕の部署に現れてにこやかに肩を叩いて去っていく。ひどく優しげな笑みは、僕にはひたすらに――不気味だった。
 誤解の人間関係と、情報を断たれた孤立無縁な状態――兵糧攻めの城はいずれ干上がる。にっちもさっちもいかなくなって、攻め落とされる――ハルミ嬢の勝利。
 こんな状況を喜べるはずがない。美人には違いないが、今の状況を作り出したハルミ嬢に好意的な感情など抱けるはずもなく、ましてや思い通りになるのはもっと嫌だった。
 そうした僕の説明を聞きながらも、タカツキは相槌も打たず合いの手も入れない。ただ黙って聞くだけ聞いて、「それで?」と綺麗な片眉をつり上げた。
「だから……お前に協力してほしいんだ、タカツキ」
 もう一度タカツキの眼をまっすぐ見て、僕ははっきりした口調で言った。タカツキは露骨に眉をひそめる。
「だから、なんでそうなるんだ?」
 それはタカツキがさっきから繰り返している言葉だ。僕はさらに身を乗りだして続けた。
「頼むよ。お前しか頼る者がいないんだ」
 これは本音だった。
 両親が離婚後に家を出て……一人暮らしをして10年余り――両親はもちろん兄貴と弟には連絡が取れないし、仲の良い同僚や友人達もそろってハルミ嬢の味方だ。
「ハルミは美人で性格は明るく、社長令嬢風を吹かせる生意気さもない……そんな女に好かれて不満を言ったら、バチが当たるのは誰だろうな?」
 タカツキは詩でも朗読するように言って、また少しだけ笑った。僕はすがるような眼で――それこそ北風に震えて凍える赤貧少女になり、マッチの一本でも擦ってやろうかなどと思いつつ、タカツキを見つめ続けた。
 口元に笑みを浮かべたままじっと僕を見つめ返していたタカツキは、やがて根負けしたというよりは、にらめっこで負けたようにクスッと笑って視線をそらした。
「まあ、いい。お前のそういう顔は好きだ。眼鏡をかけたお前みたいな顔のリーマンは、BLゲームじゃ鬼畜な上司に食われると相場が決まってるが……ふむ。ハルミはそこが気に入ったのかもなぁ」
 言うだけ言って、タカツキは一人納得している。
 タカツキはよくBLゲームと言うが、僕にはそれがどんなゲームなのかさっぱりわからない。食われるというぐらいだから、某有名アクションゲームよろしくゾンビにでもがぶりか?……それはさておき、もうひと押しだ。
「タカツキ、僕を助けてくれ」
 いいよ、とタカツキはこちらが拍子抜けするほどあっさりとうなずいた。
「――だが、わかっていると思うが……俺はタダ働きは一切しない。下僕のために無料奉仕してやるほど、俺は慈悲深くもないしヒマでもないからな。以前にも言ったが、お前は俺に尽くすために働いている。ご主人様を下僕のために働かせたいなら、お前は俺にそれ相応のものを差し出せ――わかるな?」
 そう――タカツキは以前にも僕に言った。

 お前は俺に尽くすために働け――と。

 けれど、僕がタカツキのために尽くしているかといえば、そんなことは全然ない。仕事を紹介してくれた後は、こちらから連絡しなければタカツキは僕に顔を見せることもないし、偶に飲みに誘っても会計は断固として自分で払うし、奢らせてくれと頼んでも僕に一切の散財を許さなかったからだ。
 尽くすとはどういうことなのか今さらながら疑問に思うが、僕はタカツキの助けが得られそうなので勢い込んでうなずいた。
「差し出す、差し出す。何でも差し出すから――助けてくれ」
 僕はどんな顔で言ったのだろう? タカツキはにやりと不敵な笑みを浮かべて、それまで手に持っていたタバコを僕の口にぐいっと押し込んだ。ついでに、するりと顔を寄せてかすれた甘い声で耳元に囁く。とてもいい匂いがした。
「最高だな、その顔――虐めたくなるぞ、タツミ?」
 あの、喫茶店なんですけど? それも、思いっきり真っ昼間なんですけど?
 呆然とした僕の頬をそろりとひと撫でし、タカツキは伝票を手に立ち上がった。何ごとなかったかのような、冷めた無表情の人形顔が僕を見下ろしていた――少し怖い。
「タツミ、そろそろ会社に戻れ。今夜は直帰しろ――俺は部屋にいる」
 有無を言わせぬ命令口調で言いおき、タカツキは後ろも振り返らずに颯爽と去っていった。揺れる長い髪と後ろ姿がやけに艶かしいし、歩く姿はモデルのようにカッコ良い。女の癖に――というより、タカツキは女だからこそのカッコ良さを身に着けている。
 それに比べて――。
 何気なく眼を向けたガラス窓に、自分の姿が映っていた。
 眼鏡をかけたスーツ姿の青年が一人、頼りなげな顔で椅子に座っている。顔立ちはいたって平凡だと思うし、身長だってそこそこ――タカツキより高いだけだ。高校時代にバスケで鍛えたものの、最近は日課のランニングもサボりがちだ。着やせして見える性質だけど、実際に筋肉も落ちている。取り立てて目立つところなど――華やかなタカツキに比べて皆無に等しい。
 そんな僕の――どこがハルミ嬢は気に入ったんだ?
 眼鏡を押し上げ、いい香り――タカツキの香水だ――に誘われて視線を戻そうとした時、視界の隅に異物が映った。
 灰色のビルと走り抜ける車列の向こう、水色のスーツが浮かび上がる。今の季節には少し寒そうだと思った瞬間、僕はもっと寒いものが背筋を駆け上っていくのを感じた。口から、ぽろりとタバコが落ちる。
 そこに――ハルミ嬢が立っていた。

 ―――続く―――
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Up— posted by 森川巽 @ 01:20PM   Comment[0]  Trackback[0]